滋賀県彦根市。中山道と北国街道の分岐点に位置し、琵琶湖にも面した交通の要衝として、古来より栄えた。江戸幕府が開かれて以降は、西国大名を抑えるため、譜代大名の筆頭であった井伊氏が藩主を務めさらに大きく発展した。

今回は、特別編。次なる世界遺産ともいうべき暫定リストに記載されている国宝「彦根城」を滝田栄が訪ねる。彦根藩の井伊家で一番有名なのは、桜田門外の変などで知られる井伊直弼、そして初代藩主は直政。直政の死後、家老•木俣守勝が城の移築計画を家康に伝え、彦根城の移築が決定。彦根城は豊臣恩顧の大名が多い西国への抑えの拠点として完成が急がれ、幕府から奉行が派遣され近隣諸国の大名に助役が命ぜられるなど、幕府主導の公儀普請で工事が進められた。そのため材木や石材を周辺の古城や廃寺から集め、今風にいうと彦根城はリユース(再利用)の城だった。

彦根城が世界遺産にも相応しいとされる理由は、400年前の天守や城郭があるだけでなく、城内の御殿や城下町など、当時の佇まいがよく残っていることだ。

滝田は彦根市の職員に、彦根城の魅力と貴重な文化財について説明を受けながら、城内を案内してもらう。重要文化財である多聞櫓、天秤櫓、そして、国宝の天守閣へ。彦根城は一度も戦を経験することがなかった。江戸時代にも藩主が天守を訪れることはあまりなく、天守には歴代藩主の甲冑が収納されていたという。結果的に、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担ったのだ。

およそ260年の間に培われた文化や伝統の中に実は意外なものがあると聞き、とある店を訪ねてみた。その意外なものとは?

江戸時代が終わり、各地の城が旧体制の遺産として破壊される中、明治11年、明治天皇の北陸巡幸の際、同行していた大隈重信の進言や地元の人々の熱意により、天守や櫓の一部保存が決定されたそうだ。この美しい天守の姿が人々の心を動かしたのか…。

こうして、数奇な運命を辿った彦根城は、中世に建てられた姿のまま、昭和27年天守が国宝に指定され、1992(平成4)年には世界遺産の暫定リストに掲載された。現在、世界遺産に登録される日に向け修理や保全の取り組みが行われ、年々観光客が増えている。

戦乱のない江戸時代の礎となった彦根城。滝田は、時を経て遺された城で何を思うのか。

 (『日本遺産物語』~時を紡ぐ旅~ |BSフジから)

滋賀県彦根市。中山道と北国街道の分岐点に位置し、琵琶湖にも面した交通の要衝として、古来より栄えた。江戸幕府が開かれて以降は、西国大名を抑えるため、譜代大名の筆頭であった井伊氏が藩主を務めさらに大きく発展した。

今回は、特別編。次なる世界遺産ともいうべき暫定リストに記載されている国宝「彦根城」を滝田栄が訪ねる。彦根藩の井伊家で一番有名なのは、桜田門外の変などで知られる井伊直弼、そして初代藩主は直政。直政の死後、家老•木俣守勝が城の移築計画を家康に伝え、彦根城の移築が決定。彦根城は豊臣恩顧の大名が多い西国への抑えの拠点として完成が急がれ、幕府から奉行が派遣され近隣諸国の大名に助役が命ぜられるなど、幕府主導の公儀普請で工事が進められた。そのため材木や石材を周辺の古城や廃寺から集め、今風にいうと彦根城はリユース(再利用)の城だった。

彦根城が世界遺産にも相応しいとされる理由は、400年前の天守や城郭があるだけでなく、城内の御殿や城下町など、当時の佇まいがよく残っていることだ。

滝田は彦根市の職員に、彦根城の魅力と貴重な文化財について説明を受けながら、城内を案内してもらう。重要文化財である多聞櫓、天秤櫓、そして、国宝の天守閣へ。彦根城は一度も戦を経験することがなかった。江戸時代にも藩主が天守を訪れることはあまりなく、天守には歴代藩主の甲冑が収納されていたという。結果的に、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担ったのだ。

およそ260年の間に培われた文化や伝統の中に実は意外なものがあると聞き、とある店を訪ねてみた。その意外なものとは?

江戸時代が終わり、各地の城が旧体制の遺産として破壊される中、明治11年、明治天皇の北陸巡幸の際、同行していた大隈重信の進言や地元の人々の熱意により、天守や櫓の一部保存が決定されたそうだ。この美しい天守の姿が人々の心を動かしたのか…。

こうして、数奇な運命を辿った彦根城は、中世に建てられた姿のまま、昭和27年天守が国宝に指定され、1992(平成4)年には世界遺産の暫定リストに掲載された。現在、世界遺産に登録される日に向け修理や保全の取り組みが行われ、年々観光客が増えている。

戦乱のない江戸時代の礎となった彦根城。滝田は、時を経て遺された城で何を思うのか。

(『日本遺産物語』~時を紡ぐ旅~ |BSフジから)

出典: bsfuji.tv


松江市南田町の県道拡幅工事現場の発掘調査で、堀の底を、一部を残してさらに堀り下げた「障子堀」の跡が見つかった、と市が16日発表した。1607~11年の松江城築城と同時期と見られ、江戸時代の障子堀の発見は中四国で初めてという。

 障子堀は、堀の底を田畑のあぜのような幅の狭い土手を残して堀り下げた構造で、敵が侵入しにくくなる効果がある。戦国時代、関東の北条氏が考案したとされ、東日本では多数確認されているが、西日本では大阪城三の丸跡や北九州市の小倉城外堀跡など数例しか見つかっていないという。

 今回出土したものは、深さ1メートルの堀の底に幅50センチ、長さ3・5メートルの土手を残し、さらに50~70センチ堀り下げられていた。松江城本丸から東に800メートル離れており、市は「関ヶ原の合戦後間もない緊迫した情勢の中、当時の藩主堀尾氏が城の防御に力を入れた様子がよく分かる」としている。

 また、松江城築城にかかわった堀尾吉晴は1590年、北条氏の山中城(静岡県三島市)を攻めており、この時に障子堀を目にし、城下に採り入れた可能性もあるという。

 現地説明会は18日午前10時から。当日の問い合わせは市スポーツ振興財団(090・3376・6383)へ。(土屋吾朗)

 (江戸期の「障子堀」出土 松江の県道工事現場 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)から)

松江市南田町の県道拡幅工事現場の発掘調査で、堀の底を、一部を残してさらに堀り下げた「障子堀」の跡が見つかった、と市が16日発表した。1607~11年の松江城築城と同時期と見られ、江戸時代の障子堀の発見は中四国で初めてという。

 障子堀は、堀の底を田畑のあぜのような幅の狭い土手を残して堀り下げた構造で、敵が侵入しにくくなる効果がある。戦国時代、関東の北条氏が考案したとされ、東日本では多数確認されているが、西日本では大阪城三の丸跡や北九州市の小倉城外堀跡など数例しか見つかっていないという。

 今回出土したものは、深さ1メートルの堀の底に幅50センチ、長さ3・5メートルの土手を残し、さらに50~70センチ堀り下げられていた。松江城本丸から東に800メートル離れており、市は「関ヶ原の合戦後間もない緊迫した情勢の中、当時の藩主堀尾氏が城の防御に力を入れた様子がよく分かる」としている。

 また、松江城築城にかかわった堀尾吉晴は1590年、北条氏の山中城(静岡県三島市)を攻めており、この時に障子堀を目にし、城下に採り入れた可能性もあるという。

 現地説明会は18日午前10時から。当日の問い合わせは市スポーツ振興財団(090・3376・6383)へ。(土屋吾朗)

(江戸期の「障子堀」出土 松江の県道工事現場 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)から)

出典: yomiuri.co.jp


戦国絵巻を華やかに再現 18、19日大阪城公園で「合戦祭り」 - 産経ニュース



岡田准一演じる黒田官兵衛の軍略が光った3つの攻城戦--大河未放送の合戦も - Ameba News [アメーバニュース]


兵庫県朝来(あさご)市の高笑いがとまらない。「まるで天空の城だ」と注目を集め、ここ数年、CMや映画のロケ地にもなった市内の竹田城跡に、今も観光客が殺到しているのだ。

「雲海にぽっかりと竹田城跡が浮かび上がるさまを、地元カメラマンが撮影した写真が新聞に掲載されたのは2007年頃のこと。それで一気に人気に火がつきました。それまで年間2万人ほどだった観光客がおかげで昨年は50万人。今年は80万人を超える勢いです」(朝来市観光交流課)

だが、国内には約2万ヵ所の山城跡があり、そのなかには竹田城跡のように、雲海の発生する条件がそろっているものも少なくない。

というわけで、今、各地で竹田城跡に続けとばかり、第2、第3の「天空の城」が次々と名乗りを上げているのだ。

その筆頭は岡山県高梁(たかはし)市の備中(びつちゅう)松山城。標高430mの小高い山に立つ山城だ。

実はこの備中松山城、すでに十数年前から雲海に浮かぶ「天空に浮かぶ城」として、高梁市がPRしていたのだという。

「竹田城跡と違い、こちらは築城された当時の天守閣がそのまま残っています。全国にそうした現存天守閣はたった12城、山城では備中松山城だけという貴重さが売りです。竹田城跡が年間80万人なら、こちらはその半分、いや4分の1でも、こちらまで足を延ばしてほしいと思っています」(高梁市観光協会)

福井県大野市の越前(えちぜん)大野城もやる気満々だ。大野盆地にある標高249mの亀山山頂にあるこの城もまた、気候条件さえ整えば、「天空の城」となる。

だが、備中松山城と違い、この城が「天空の城」を名乗ったのはわずか1年前のこと。

「以前から雲海に浮かぶのではといわれていたのですが、映像や写真などの記録がなく、誰も確信を持てずにいました。ところが、2年前に地元カメラマンが見事に雲上に浮かぶ越前大野城を撮影することに成功したんです。そこでポスターを作製し、『天空の城・越前大野城』と本格PRを始めました。雲海は10月、11月の早朝にできやすい。だから、お城の入場時間もこの期間は午前6時からと、平常より3時間早くしました」(大野市商工観光振興課)

ただし、この越前大野城にはウイークポイントが……。竹田城跡は月に10日ほど、備中松山城は月に15日ほども雲海が発生するのだが、こちらは年間たった10日ほど……。

だが、大野市はめげない。

「つまり、こちらの『天空の城』はちょっとやそっとでは見ることのできない絶景。年間10日の雲海という条件を逆手(さかて)に取り、『365分の10の奇跡』というキャッチフレーズで売り出します」(大野市商工観光振興課)

ほかにも、三重県熊野市の赤木城もこの5月、地元のアマチュアカメラマンが雲海シーンの撮影に成功し、早速、「天空の城」として市内観光ツアーに組み込まれることに。

岐阜県恵那(えな)市の岩村城、同じく岐阜県中津川市の苗木城も、地元では雲海に浮かぶことで知られる。しばらくは「天空の城」ブームにあやかった町おこしの動きが各地で続きそうだ。

(取材/ボールルーム)
 (大人気の竹田城に続き、天空の城町おこしブームが到来? - 夕刊アメーバニュースから)

兵庫県朝来(あさご)市の高笑いがとまらない。「まるで天空の城だ」と注目を集め、ここ数年、CMや映画のロケ地にもなった市内の竹田城跡に、今も観光客が殺到しているのだ。

「雲海にぽっかりと竹田城跡が浮かび上がるさまを、地元カメラマンが撮影した写真が新聞に掲載されたのは2007年頃のこと。それで一気に人気に火がつきました。それまで年間2万人ほどだった観光客がおかげで昨年は50万人。今年は80万人を超える勢いです」(朝来市観光交流課)

だが、国内には約2万ヵ所の山城跡があり、そのなかには竹田城跡のように、雲海の発生する条件がそろっているものも少なくない。

というわけで、今、各地で竹田城跡に続けとばかり、第2、第3の「天空の城」が次々と名乗りを上げているのだ。

その筆頭は岡山県高梁(たかはし)市の備中(びつちゅう)松山城。標高430mの小高い山に立つ山城だ。

実はこの備中松山城、すでに十数年前から雲海に浮かぶ「天空に浮かぶ城」として、高梁市がPRしていたのだという。

「竹田城跡と違い、こちらは築城された当時の天守閣がそのまま残っています。全国にそうした現存天守閣はたった12城、山城では備中松山城だけという貴重さが売りです。竹田城跡が年間80万人なら、こちらはその半分、いや4分の1でも、こちらまで足を延ばしてほしいと思っています」(高梁市観光協会)

福井県大野市の越前(えちぜん)大野城もやる気満々だ。大野盆地にある標高249mの亀山山頂にあるこの城もまた、気候条件さえ整えば、「天空の城」となる。

だが、備中松山城と違い、この城が「天空の城」を名乗ったのはわずか1年前のこと。

「以前から雲海に浮かぶのではといわれていたのですが、映像や写真などの記録がなく、誰も確信を持てずにいました。ところが、2年前に地元カメラマンが見事に雲上に浮かぶ越前大野城を撮影することに成功したんです。そこでポスターを作製し、『天空の城・越前大野城』と本格PRを始めました。雲海は10月、11月の早朝にできやすい。だから、お城の入場時間もこの期間は午前6時からと、平常より3時間早くしました」(大野市商工観光振興課)

ただし、この越前大野城にはウイークポイントが……。竹田城跡は月に10日ほど、備中松山城は月に15日ほども雲海が発生するのだが、こちらは年間たった10日ほど……。

だが、大野市はめげない。

「つまり、こちらの『天空の城』はちょっとやそっとでは見ることのできない絶景。年間10日の雲海という条件を逆手(さかて)に取り、『365分の10の奇跡』というキャッチフレーズで売り出します」(大野市商工観光振興課)

ほかにも、三重県熊野市の赤木城もこの5月、地元のアマチュアカメラマンが雲海シーンの撮影に成功し、早速、「天空の城」として市内観光ツアーに組み込まれることに。

岐阜県恵那(えな)市の岩村城、同じく岐阜県中津川市の苗木城も、地元では雲海に浮かぶことで知られる。しばらくは「天空の城」ブームにあやかった町おこしの動きが各地で続きそうだ。

(取材/ボールルーム)
(大人気の竹田城に続き、天空の城町おこしブームが到来? - 夕刊アメーバニュースから)

出典: yukan-news.ameba.jp


戦国武将、明智光秀ゆかりの西教寺(大津市坂本5丁目)が、光秀寄進の「坂本城陣鐘(じんしょう)」など重要文化財3点を土日祝日限定で初公開している。

 西教寺は7世紀初めに聖徳太子が創建したと伝わる古寺で、1571年に織田信長による比叡山焼き打ちで焼失。坂本城主となった光秀が復興を助けて一族の菩提(ぼだい)寺となった。

 初公開の重文はほかに、平安時代の優美なたたずまいを残す「聖観音立像」と、鎌倉時代の様式をもつ「石灯籠(とうろう)」。JR西日本のキャンペーン「ちょこっと関西歴史たび」に合わせた特別企画で、本堂の厨子(ずし)に収められた聖徳太子と、同寺中興の祖「元三大師(がんざんだいし)」2人の座像も、10年ぶりに公開された。

 同寺の中島敬瑞社会部主事(44)は「いずれも次の公開の予定はなく、貴重な機会に寺へ足を運んでもらい、不断念仏の鉦(かね)の音に癒やしを感じてもらいたい」と話す。12月7日まで。聖徳太子と元三大師の座像は平日も公開する。拝観有料。
 (光秀寄進の陣鐘初公開 大津・西教寺 : 京都新聞から)

戦国武将、明智光秀ゆかりの西教寺(大津市坂本5丁目)が、光秀寄進の「坂本城陣鐘(じんしょう)」など重要文化財3点を土日祝日限定で初公開している。

 西教寺は7世紀初めに聖徳太子が創建したと伝わる古寺で、1571年に織田信長による比叡山焼き打ちで焼失。坂本城主となった光秀が復興を助けて一族の菩提(ぼだい)寺となった。

 初公開の重文はほかに、平安時代の優美なたたずまいを残す「聖観音立像」と、鎌倉時代の様式をもつ「石灯籠(とうろう)」。JR西日本のキャンペーン「ちょこっと関西歴史たび」に合わせた特別企画で、本堂の厨子(ずし)に収められた聖徳太子と、同寺中興の祖「元三大師(がんざんだいし)」2人の座像も、10年ぶりに公開された。

 同寺の中島敬瑞社会部主事(44)は「いずれも次の公開の予定はなく、貴重な機会に寺へ足を運んでもらい、不断念仏の鉦(かね)の音に癒やしを感じてもらいたい」と話す。12月7日まで。聖徳太子と元三大師の座像は平日も公開する。拝観有料。
(光秀寄進の陣鐘初公開 大津・西教寺 : 京都新聞から)

出典: kyoto-np.co.jp


今秋には小栗旬が信長を演じるドラマ「信長協奏曲」(フジテレビ系)も始まるなど、ブームが再燃しつつある織田信長。その出生地については諸説あったが、ここにきて愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった勝幡城〈しょばたじょう〉が有力視され町おこしが本格化するなど、大騒ぎなのだ。

 今年で生誕480年を迎えた織田信長。これまで信長の生誕地として、通説とされてきたのが、現在の名古屋城二の丸付近にあったとされる「那古野城生誕説」だった。

 ところが、愛西市教育委員会社会教育課の課長補佐、石田泰弘氏の研究成果が実り、通説だった「那古野城生誕説」から最近では愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった「勝幡城生誕説」が広く認められつつあるのだ。石田氏が解説する。

「歴史学の世界で長らく採用されてきた那古野城生誕説は、天文元(1532)年に信長の父、信秀が今川氏豊を攻めて那古野城を奪取し、その2年後に信長が生まれたという説でした。私が日本史を専攻する学生時代に、勝幡城生誕説をレポートにまとめて提出したところ、教官に『アホか!』と一蹴されたほど。勝幡城生誕説というのは、古くから地元で伝わってきた伝承にすぎなかったんです」

 ところが、石田氏が佐織町(現愛西市)の教育委員会に勤務している時に、江戸時代中期に尾張地方の古城についてまとめた「尾州古城志」の写本を見つけたことが大きな発見の契機となった。

「『尾州古城志』には「天文3(1534)年5月28日、勝幡城において信長出生」と書かれていました。また京の公家、山科言継の日記『言継卿記』には信長出生の前年、1533年7月に言継一行が勝幡城を訪問しているとありました。もし1532年に那古野城を奪取していたならば那古野に招待するのでは? と思ったんです。だから必然的に1534年に誕生した信長の出生地は勝幡城以外ありえないということになります」

 さらに、「言継卿記」には、名古屋城の今川竹王丸(今川氏豊の幼名)が勝幡へ訪れて言継に面会したという記述もあり、1533年7月時点で勝幡城には信秀が、那古野城には今川竹王丸がいたことが“証明”されたのだ。

 そこで石田氏は研究成果を92年に「織田信長出生考」を発表したところ、反論はほとんどなく、逆に多くの支持を得たばかりか、今や「勝幡城生誕説」が定説化しているのだ。

 突如、降って沸いた信長生誕説に地元・愛西市も大いに盛り上がっている。10年には地元住民が「信長生誕を育む会」を立ち上げ、翌年にはNPO法人化。地域振興に一役買っているという。事務局長の水谷眞人氏によると、

「勝幡が信長生誕の地であることを多くの人々に知ってもらうために一昨年から『信長生誕祭』を開催しています。3回目となる480年祭では約800名の方が来場し、たいへん盛り上がりました」

 また、地元でクレープ店を営む会員は、信長の名前を冠したメニューを用意するなどしてPRにも余念がない。

 この動きに行政も反応し、昨年3月、名古屋鉄道勝幡駅前の広場に父の信秀と母の土田御前に抱かれた赤ん坊の信長の銅像や勝幡城の復元模型、地元の芸術家による壁画が設置された。

「これからもイベントの開催やホームページなどを通じて信長生誕の地、勝幡をPRしていきます」(前出・水谷氏)

 今後、ますます信長フィーバーが加速するのは間違いなさそうだ。

 (信長ブーム再燃の裏で「生誕地論争」が集結 | アサ芸プラスから)

今秋には小栗旬が信長を演じるドラマ「信長協奏曲」(フジテレビ系)も始まるなど、ブームが再燃しつつある織田信長。その出生地については諸説あったが、ここにきて愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった勝幡城〈しょばたじょう〉が有力視され町おこしが本格化するなど、大騒ぎなのだ。

 今年で生誕480年を迎えた織田信長。これまで信長の生誕地として、通説とされてきたのが、現在の名古屋城二の丸付近にあったとされる「那古野城生誕説」だった。

 ところが、愛西市教育委員会社会教育課の課長補佐、石田泰弘氏の研究成果が実り、通説だった「那古野城生誕説」から最近では愛知県西部の愛西市と稲沢市の境にあった「勝幡城生誕説」が広く認められつつあるのだ。石田氏が解説する。

「歴史学の世界で長らく採用されてきた那古野城生誕説は、天文元(1532)年に信長の父、信秀が今川氏豊を攻めて那古野城を奪取し、その2年後に信長が生まれたという説でした。私が日本史を専攻する学生時代に、勝幡城生誕説をレポートにまとめて提出したところ、教官に『アホか!』と一蹴されたほど。勝幡城生誕説というのは、古くから地元で伝わってきた伝承にすぎなかったんです」

 ところが、石田氏が佐織町(現愛西市)の教育委員会に勤務している時に、江戸時代中期に尾張地方の古城についてまとめた「尾州古城志」の写本を見つけたことが大きな発見の契機となった。

「『尾州古城志』には「天文3(1534)年5月28日、勝幡城において信長出生」と書かれていました。また京の公家、山科言継の日記『言継卿記』には信長出生の前年、1533年7月に言継一行が勝幡城を訪問しているとありました。もし1532年に那古野城を奪取していたならば那古野に招待するのでは? と思ったんです。だから必然的に1534年に誕生した信長の出生地は勝幡城以外ありえないということになります」

 さらに、「言継卿記」には、名古屋城の今川竹王丸(今川氏豊の幼名)が勝幡へ訪れて言継に面会したという記述もあり、1533年7月時点で勝幡城には信秀が、那古野城には今川竹王丸がいたことが“証明”されたのだ。

 そこで石田氏は研究成果を92年に「織田信長出生考」を発表したところ、反論はほとんどなく、逆に多くの支持を得たばかりか、今や「勝幡城生誕説」が定説化しているのだ。

 突如、降って沸いた信長生誕説に地元・愛西市も大いに盛り上がっている。10年には地元住民が「信長生誕を育む会」を立ち上げ、翌年にはNPO法人化。地域振興に一役買っているという。事務局長の水谷眞人氏によると、

「勝幡が信長生誕の地であることを多くの人々に知ってもらうために一昨年から『信長生誕祭』を開催しています。3回目となる480年祭では約800名の方が来場し、たいへん盛り上がりました」

 また、地元でクレープ店を営む会員は、信長の名前を冠したメニューを用意するなどしてPRにも余念がない。

 この動きに行政も反応し、昨年3月、名古屋鉄道勝幡駅前の広場に父の信秀と母の土田御前に抱かれた赤ん坊の信長の銅像や勝幡城の復元模型、地元の芸術家による壁画が設置された。

「これからもイベントの開催やホームページなどを通じて信長生誕の地、勝幡をPRしていきます」(前出・水谷氏)

 今後、ますます信長フィーバーが加速するのは間違いなさそうだ。

(信長ブーム再燃の裏で「生誕地論争」が集結 | アサ芸プラスから)

出典: asagei.com


【松前】松前城資料館近くにある、道内では珍しいイチジクの木が多くの実を付け、松前公園を訪れた観光客らの関心を集めている。

 イチジクはアラビア半島南部が原産地。資料館入り口前にある木は高さ約3メートルで、春と秋の2度実を付ける。春の実は大きいが数はせいぜい10個程度。秋の方が数は多く、今年は9月下旬から実を付け始め、10月初旬には5センチ前後の丸い実が200個ほどに。実が熟し、次々と赤褐色に色づいている。

 同資料館の久保泰館長によると、昔あった公宅の入居者が植えたようで、樹齢は60年を超えているという。例年、カラスに実を取られるため、今年は木を網で覆い保護した。観光で訪れた釧路市の公務員渡部港吾(こうご)さん(51)と妻久美子さん(52)は「釧路は食べられる木の実が少ないので、うらやましい」と写真に収めていた。(沢口俊夫通信員) 
 (イチジク秋の色づき 松前城近く 赤褐色、200個実る-北海道新聞[道南]から)

【松前】松前城資料館近くにある、道内では珍しいイチジクの木が多くの実を付け、松前公園を訪れた観光客らの関心を集めている。

 イチジクはアラビア半島南部が原産地。資料館入り口前にある木は高さ約3メートルで、春と秋の2度実を付ける。春の実は大きいが数はせいぜい10個程度。秋の方が数は多く、今年は9月下旬から実を付け始め、10月初旬には5センチ前後の丸い実が200個ほどに。実が熟し、次々と赤褐色に色づいている。

 同資料館の久保泰館長によると、昔あった公宅の入居者が植えたようで、樹齢は60年を超えているという。例年、カラスに実を取られるため、今年は木を網で覆い保護した。観光で訪れた釧路市の公務員渡部港吾(こうご)さん(51)と妻久美子さん(52)は「釧路は食べられる木の実が少ないので、うらやましい」と写真に収めていた。(沢口俊夫通信員)
(イチジク秋の色づき 松前城近く 赤褐色、200個実る-北海道新聞[道南]から)

出典: hokkaido-np.co.jp


大雪被害の復旧完了 天守閣入場可能に 君津・久留里城 | ちばとぴ ちばの耳より情報満載 千葉日報ウェブ


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